国本武春 名人を語る 第1回

月刊浪曲9月号 2001年8月25日発行 からの再掲載

二代目 広沢虎造(ひろさわ とらぞう)

二代目 広沢虎造
明治32年(1899) 5月18日〜
昭和39年(1964 )12月29 日
東京都出身

大阪の浪曲師二代目広沢虎吉に入門。
初め広沢春円、広沢天勝、後に天華と名乗る。
1922年23歳で2代目広沢虎造を襲名。

曲師(相三味線)美家好(妻)

代表的な演題
清水次郎長伝

・秋葉の火祭り
・名古屋の御難
・勝五郎の義心
・お蝶の焼香場
・次郎長の貫禄
・久六の悪事
・次郎長の計略
・大野の宿場
・代官斬り
・石松金比羅代参
・石松三十石船
・石松と身受山鎌太郎
・石松と都鳥三兄弟
・石松と小松村七五郎
・閣魔堂の騙し討ち
・お民の度胸
・石松の最後
・為五郎の悪事(本座村為五郎)
・追分三五郎
・追分宿の仇討ち
・清水の三下奴(善助の首取り)
・鬼吉喧嘩状
・次郎長と玉屋の玉吉
・血煙荒神山(蛤屋の喧嘩)
・血煙荒神山(神戸の長吉)
・吉良の仁吉
・仁吉男の唄
・吉良の仁吉(最後の荒神山)
・最後の荒神山
・石松若き日
・七五郎懺悔・追分宿の仇討ち(追分三五郎より)
・清水港義侠伝
・明月清水港

国定忠治伝 他

二代目 広沢虎造

浪曲の魅力は昔から「一声、二節、三啖呵」といわれます。
虎造先生は最も求められる声量の点では
秀でていたわけではないのですが、
節と啖呵の妙、バランスの良さといったものを感じます。

普通お客さんが大勢入った会場では
どうしても遠くへ語りかける啖呵、
張り啖呵になりがちですが、そこを抑えて、
すぐそばにいる人に語りかける
ような形で語っていくのが虎造先生です。

これは私だけに聞かせてくれているというような
居心地のよさをお客さんに感じさせます。
そして節調が邪魔にならず、啖呵にうまくマッチしています。

私のように自分から浪曲を志した者から見て
一番すばらしいと思う点は、
『次郎長伝」という演目や森の石松といった登場人物
つまり浪曲にある素材や
浪曲という形を使って遊んでいるところです。

遊んでいるというと軽く見ているように感じられますが、
実は遊ぶということほど難しいことはないのです。

落語でこれができたのは古今亭志ん生師匠の他、
それほど多くはいないと思います。
それだけ難しいということです。

それは芸とか筋とかいったものが
腹に入っているからできることで、
多少の言い間違いなど問題ではないのです。
録音を聞いて思うことは、
ここから節で、ここから啖呵でといった
打ち合わせを曲師の師匠と
していないんだろうということです。

そのようなラフなところがありながら
見事に浪曲として表現してしまうすばらしさ。
本当は綴密な計算をしているのだけれども、
そう感じさせないということかも知れません。

この点については御本人に直接お会いして
話をうかがった訳でも、
実際に生の舞台を見た訳でもないので分かりませんが、
浪曲の遊びの魅力というものを感じさせる先生です。

現在、最も聴いてほしい浪曲師
といえばやはり虎造先生でしょう。

初心者でも分かりゃすく、
入りやすい間口の広さがあると同時に
長年浪曲に携わっている
プロも浪曲好きの人もうならせるだけの
奥行の深さも持っているところがすごいと思うのです。


寿々木米若(すずき よねわか)

明治32年(1899) 5月5 日~
昭和54年(1979) 12月29日
新潟県出身

叔父は浪曲師の初代寿々木亭米造

1920年に上京
二代目寿々木亭米造に入門
寿々木亭米若(のちに寿々木米若)の名で前座ではなく二つ目からスタートした。

1923年に真打昇進し一門を離れ独立。1928年に渡米、巡業する。
新作物を得意とし、
佐渡おけさにヒントを得て創作し
自ら口演したSPレコード「佐渡情話」
が大ヒット。

ビクター、テイチクといった
レコード会社を跨いだ形で
吹き込みされた演目であり、
1930年代にレコードとして
最も売れた浪花節の一つである。

〽佐渡へ 佐渡へと 草木はなびく

の哀調を帯びた外題付けは、有名になった。
哀切な語り口調と関西節の美声が特長。俳句も良くし、高浜虚子に師事、多くの作品を残している。
長年日本浪曲協会会長も務めた。

熱海に建てた旅館「よねわか荘」を別宅としたが、巡業続きで帰る暇がほとんど無いほどだったという。

代表的な演目

・佐渡情話
・八百屋お七
・吉田御殿
・唐人お吉

寿々木米若

録音を聞いてまず感じることは
声量や声質のよさといった点ですが、
声の魅力だけで会場の空気を包み込んでしまうだけの
パワーを持っていた先生だと思います。

現在の歌手は歌のうまさだけではなく、
奇をてらうようなパフォーマンスやルッ クスなど
いろいろな要素を持つことが要求されますが、
米若先生は三味線一丁、声一本で何千、何万という人を
魅了する力を持っていたと思うのです。
それもマイクロフォンや音響設備が
きちんとしていない所でも
朗々と聴かせるだけの力があったと思います。

「一声、二節、三啖呵」
ということばがまさに当てはまる先生で、
声のよさという点では
歴代の浪曲部の中で一番だと思います。

今回改めて何席か聴いてみますと、
これが案外いいんですね。
浪曲を聴き始めた頃は最初の節、声はよいのですが、
啖呵に入って筋を追っていくと
飽きてしまうということがありました。

しかし浪曲の芸というものが分かってくると、
魅力のある芸だ
ということが理解できるようになってきました。

小粋な芸を好む東京の人達には嫌われたでしょうが、
娯楽に飢えていた全国各地に散らばる浪曲ファンは
真っ先に
米若先生に飛びついたのではないかと思われます。

それは声のよさもありますが、節調のよさ、
包み込んでくれる音調に
酔いしれたのではないかと思うのです。
節に酔うというのは浪曲独特の世界で、
筋は聴いているようで聴いていない。

だからネタは何だっけということにもなります。
しかし人々は米若先生の節に酔いしれ、筋などかまわない、
うなってくれればそれでよい
という状態にまでなっていたと思われます。

昭和初期までの浪曲は声の魅力で人々をひきつけ、
以後はメロディが大切だったと思います。
しかしリズム感やメロディははやりすたりがあり、
今は内容が分かりゃすい
ということが一番に求められると思うのです。

ですから啖呵に重点を置かざるを得ない。
ところが米若先生の場合は
そんな心配はなんらする必要がない、

いい声でいい節を使えば満員になったという
浪曲の全盛期がなせる技というところがあると思うのです。