国本武春 名人を語る 第2回

月刊浪曲10月号 2001年9 月25日発行

浪花亭綾太郎(なにわてい あやたろう)

明治22年(1889)10月17日〜
昭和35年(1960)8月9日
神奈川県横浜市出身

盲目ながら甲高い名調子で人気があった。

2歳で麻疹で失明する。
11歳で春日井文子の門下。
1903年には初代浪花亭綾造の門下になった。

21歳で浪花亭綾太郎を名乗り
浅草新恵比寿亭で襲名披露を行なった。

「壺坂霊験記」の名調子
『妻は夫を労わりつ、夫は妻を慕いつつ…』が大当たりし後に十八番となる。

「壺坂の綾太郎」の異名があった。
「綾太郎を弾くと三味線の手があがる」
(つまり相手の曲師の技術が向上する)
といわれるほど、節も台詞も間合いが良く、その甲高い美声には哀調がこもっている。

代表演目
「壺坂霊験記」
「め組の喧嘩」
「佐倉義民伝」
「吉原百人斬り」
「曽我物語」

等、持ちネタは千席を超えていた。

浪花亭綾太郎

浪曲に限らず生の芸能はお客さんとの間合いをはかって
押したり引いたり透(す)かしてみたり、
あるいは小粋にいってみたり
クサクいってみたりというように緩急が大切です。

そしてそれが上手な人もいれば失敗する人もいる
というものだと思うのですが、
綾太郎先生は押す一方で声がかれようが
腹の底から叫び出すという芸であると思います。

浪曲の魂ということを私はよく考えるのですが、
綾太郎先生は浪曲の魂が一番あった人ではないかと思います。

もっとも目が不自由な方はどうしても
熱演型になる傾向が浪曲に限らずありますが、
その中でも綾太郎先生は屈指の熱演といえるでしょう。

それはテープで聴いていても感じることで、
これほど身を削って語ってくれているのか
と感じさせるような勢いがあり、
ネタに泣くのではなくて熱演に泣いてしまうのです。

いろいろな方の話を聞くと、昼間読んできかせたことを
夜には節をつけて一席にして演じてしまうという、
今ではとても考えられない集中力があった人だそうです。
頭から足の先までまさに浪曲というような、
それも高調子の関東節という
張りのある芸が身についた人だと思います。

実際に生の舞台に接すれば、熱演ばかりではなく、
軽くやったり、もっと遊んだり
ということもあったかも知れません。

しかし私が持つ綾太郎像は熱演、
そして聴衆の気持ちをえぐるというものです。
芸はまさしく人間がやるものですから、
作品を描く力ももちろん大事ですが、
演じている人、表現している人自体に感動しないと、
なかなか深い感動は生まれません。

ということであれば綾太郎という先生は
おそらく存在自体が感動といえると思います。

綾太郎先生にしても関西の満月先生にしても、
ある程度浪曲が分かってきた人が聴くと
そのすごさに驚くというところがあると思いますし、
それが特徴ともいえるでしょう。


三門博(みかど ひろし)

明治40年(1907)5月5日~
平成10年(1998)10月12日
長野県 松本市出身

1929年に出した「唄入り観音経」
が空前の大ヒットをし、
戦後も長らくヒットを続ける。

1926年(昭和元年)
松本在住の地元で人気の浪曲師
「吉田筑南」の元で
天狗連として修業を積む。

1927年(昭和二年)上京。
当初、東若武蔵(東武蔵の弟子で、
二葉百合子の父)の一座入り。
同年、名古屋で修行を始める。
初代浪花亭綾勝に世話になり
二代目「浪花亭綾勝」の名で
約10年間をこの地で過ごした。

後に再び上京し、
有力な曲師である、鈴木柳と出会う。
この頃「御門博」と改名。

戦時中に「三門博」と改名。

レコード「唄入り観音経」
(当初のタイトル「ざんげ観音経」)
(1929年(昭和4年)発売)
はロングセラーで戦後まで売れ続け、
累計200万枚の大ヒット

得意演目
「宝の入船」
「男の花道」

弟子には
三門柳が現役で活躍中

三門博

浪曲の魅力の要素には声、節、啖呵、パフォーマンス
つまり表現力・芸、そして構成力
といったものがあると思います。

構成力とは台本をまとめる力ですが、
三門先生は構成力にも長(た)けていました。
そして自分みずから台本を作るということをしました。
中でも「唄入り観音経」は、
浪曲が戦意高揚の手段として利用され、
果たしてこれが芸能なのかという疑問を持つ時代に
娯楽に撤した作品として作られました。
私はここに三門先生の反骨精神を見ます。

人と同じにはするものかという
三門先生には既成の浪曲に対しても、
あんなに息張らなくてもいいんだとか、
そんなに夢中になって
お涙頂戴をしなくてもいいんだとかというように
いろいろな思いがあったと思うんです。

私も三門先生には晩年ですがお会いしたり、
ほんのちょっとですが
一緒に旅をまわったりしたこともあります。
そんな時にすぐにいなくなって
釣りに行ってしまったりするんです。
もちろん常に浪曲のことを考えていたのでしょうが、
人と同じことはしない
というところが基本的にはあったと思うのです。

ただ、ああいう節が作れたのは
曲師の相当な力が必要だったと思います。
もちろん浪曲の中にも
どっぷりつかったことによってできた節なのでしょうが、
その一方で曲師のお師匠さんとともに他の芸能を研究することも
だいぶあったのではないでしょうか。

いい曲師を専属にして
日夜一緒になってああでもないこうでもないと研究する。
これは浪曲師にとってとてもうらやましいことです。

三門一門に女流が多いのは初代の雲月先生と同じように
女流に好まれる華やかで品がよく心地のよい節調を
先生が作り上げたからに他ならないと思います。

三門先生の節は、幕内や本当の浪曲ファンにとっては、
当時としては邪道といわれるものだったでしょうが、
世の中を変える力というのは
得てしてそのようなところから生まれてくるものです。

邪道といわれでも売れてしまい、
受けてしまえば、それが主流となります。
それだけの自分のスタイルを台本も含めて根底から
作っていったところに三門先生の偉大さがあります。