国本武春 名人を語る 第6回

月刊浪曲3月号 2002年2 月25日発行

桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん くもえもん)

桃中軒雲右衛門

明治6年(1873)10月25日〜
大正5年(1916)11月7日(43歳没)
群馬県出身

明治時代から大正時代にかけての代表的浪曲師。
亭号は沼津駅の駅弁屋である桃中軒に由来する。名は修行時代に兄弟分であった力士の「天津風雲右衛門」に由来するとされる。

浪曲界の大看板で「浪聖」と謳われた。

弟子に「東家楽燕」その弟子に「東家幸楽」その弟子に「国本武春」

雲右衛門先生の時代はSPレコードの出始めの頃であるために録音技術の問題もあって、
音源を聞いてどれだけすごいかということが他の人たちと比べて分かりにくいところがあります。

しかし想像するに重友先生ばりの力強い声と大きなスケールがあったのだと思います。

雲右衛門先生の芸は現在の浪曲のいろいろな要素のおおもとですから、
浪曲師の間でもこの芸がいいか悪いかから始まるところがあります。
もちろん浪曲中興の祖、
浪曲の神様と呼ばれるような人ですから、だれもが認めざるを得ないところはあります。

楽燕先生の持つ品格は雲右衛門先生の
芸の影響によるものであることはすでに知られているところですが、
私は大正の四天王すべてに雲右衛門先生の芸の影響が見られると思うのです。

例えば雲右衛門先生の芸には
初代雲月先生の持つ節調のよさもあり、重友先生のような声の張りもあります。
また虎丸先生の演出方法とはまた違いますが、奇をてらうところも雲右衛門先生にはあります。

またスケール感もあります。
一行二行を一息で語る雲調のなんともいえないスケール感、奥深さ。
そしてそれを納得させるだけの押し出しもあります。

録音を聞いているだけでも、そこから想像をふくらませていくと、すごいんだなと思われます。
何千人もの人々が集まる大劇場で演じて、
その人たちを魅了してしまうほどの威厳と品格を持っているのが雲右衛門先生の芸だといえるでしょう。

もっとも奇をてらうところには品は感じませんが・・・・・・。

さらに雲右衛門先生の功績として
「義士銘々伝」の台本を美文で作り上げたこともあげられます。
この台本はいまだに我々がテキストとして演じているものです。

昔の先輩達は一席が今のような30分とか25分とかいうわけではないですから、
長いものを何席も独演会で演じたりしました。

また声や芸にもパワーがありました。
そしてそれをお客さんはシー ンと咳払いもせずに聴いていました。
お客さんも芸に飢えていたのです。
芸能の一つのピー クが雲右衛門先生にあって、
その中によくも悪くも後の浪曲の要素がたくさんあったと思います。

そして雲右衛門先生を中興の祖にしたがために、
浪曲は馬鹿売れをして大はやりはしたのですが、
すごく盛り上がった反動としてすごくしぼんでしまったということもあります。
これが寄席芸というところで納まって細かい芸や上手な芸をやっていれば、
それほどはやりすたりはなかったのではないかと思います。
その代わりたいしたこともなかったでしょうけれども……。

しかし、浪曲師の中には寄席読みの人がいたり、啖呵読みの人がいたりして
いろいろなバリエーションがあるというのが浪曲です。
同じネタをやっても演者によって表現方法が
天地の差ほどの違いがあったりします。
他の語り物の場合は新内にしても義太夫にしても
一つの節調で一つのジャンルを作っているわけです。
それと比べると浪曲は、一人一人ジャンルが違う、
いわば一人の演者が浪曲の一つのジャンルとなっているようなところがあります。

ですからこのような多種多様な人たちを
浪花節とか浪曲という概念で閉じこめて語ることは
本来あまりよくないという気もいたします。

とはいうものの、雲右衛門先生は浪曲が後の世に大変にはやる、
日本を席巻してしまう、まさしくそのスイッチを押した先生ではないかと思います。

この先生が浪曲の時代を作り、
後の人たちは皆、時代に乗ったといえるでしょう。
時代というのは試行錯誤して作っていくこともあるでしょうし、
流れが自分の方に向一きそうになった時に
グイと引き寄せて、
それを全部自分の手柄のようにする強引きが必要なこともあるでしょう。

雲右衛門という人にはそのような強引さもあったのではないかと思います。
もちろんブレーンの力もあったのでしょうが、
雲右衛門先生は声、節、啖呵という
芸の要素以外のものもたくさん入り込んで伝説の人になったのではないでしょうか。

そして雲右衛門先生によって浪曲の地位が上がったことも確かです。
我々も他の芸能に混ざると先生と呼ばれます。

師匠でなく先生と呼ばれるようになったはしりは
おそらく雲右衛門先生ではなかったかと思うのです。
雲右衛門先生のような方がいなかったら
絶対に浪曲師は師匠と呼ばれるのが妥当であったでしょう。


略歴
本名は山本幸蔵。群馬県高崎市新田町出身。父は地方回りの祭文語りをしていた吉川繁吉で、その二男として生まれる。母・ツルは三味線弾きであった。また兄は仙太郎といい幸蔵とともに母に三味線を習った、弟の峰吉は後に兄に感化され桃中軒風右衛門を名乗った。

三味線を習い、吉川小繁を名乗り、ヒラキ(大道芸の仮設小屋)での口演や流しなどをしていた。父の没後、その名である2代目吉川繁吉を襲名し、寄席への進出も果たす。その後、横浜で初代三河家梅車の興行についていた三味線弾き(曲師)の夫人お浜に同情して恋仲となり、そのまま駆け落ちしたため関東に戻れず(この時に捨てた弟子に後の木村重松)、京都を経て九州へと至り修行を積む。その過程で従来の関東節に加えて、関西節や、九州で当たりを取っていた美当一調の「糸入り講談」(三味線を伴奏に入れた軍談。浪花節の前駆形態と考えられている)を取り入れ、後の雲右衛門節を生み出していった。雲右衛門独特の重厚なフシ調を「雲調」や「雲節」と呼ぶ。

1903年(明治36年)、桃中軒牛右衛門の名で雲右衛門に弟子入りしていた宮崎滔天や、福本日南、政治結社玄洋社の後援で「義士伝」を完成させる。武士道鼓吹を旗印に掲げ、1907年(明治40年)には大阪中座や東京本郷座で大入りをとった。
雲右衛門の息の詰まった豪快な語り口は、それまで寄席芸であった浪曲の劇場への進出を可能にし、浪曲そのものも社会の各階級へ急速に浸透していくことになる。

当時大人気であったが、要求する吹込料が非常に高額であったため、なかなかレコードが出されなかった。ようやく1912年(明治45年)5月19日、雲右衛門のレコードがライロフォン(三光堂)から発売され、これが雲右衛門のレコードデビューとなる。5種の両面レコードが発売された。

しかし1913年(大正2年)ごろから、肺結核になり、宮崎の説得で何度か入院をしたが元気になるとすぐに巡業に出てしまい、最後に実子の西岡稲太郎が自宅に引き取って看病するが甲斐なく、1916年(大正5年)11月7日に死亡した。
大きな足跡を残したが、晩年は寂しいものであったという。
墓所は東京都品川区の天妙国寺。戒名は「桃中軒義道日正居士」。
死後、「桃中軒雲右衛門」の名を門下の4人(白雲、雲州、雲大丞、野口洋々)がそれぞれ名乗り、混乱が起きた

弟子に、桃中軒如雲、東家楽燕、酒井雲、他、孫弟子に、村田英雄、東家三楽、東家幸楽、京乃天姫、玉川スミなどがいる。