中洲通信 国本武春 ロングインタビュー 前半

中洲通信 1997年9月号 浪曲師 国本武春 夢幻浪曲狂噺(ゆめまぼろしのろうきょくたっぷりちわばなし) 国本武春36歳の今を語る! 秀逸なインタビュー是非お読みください

Kunimoto Takeharu Long interview

… 今は浪曲をやるところがなくなってしまいましたね。

国本 定席として浅草の木馬亭がありますが、他はないですね。
ぼくなどは他に国立演芸場の若手花形演芸会などに出る
程度ですかね。普通にしてるとだんだん減ってきます。
需要がないというか。

… 自分の方から売っていかないとダメということ。

国本 そうですね。自分でタネをまいてやれば・・・

… タネをまくといっても、何処にまくかというのが問題で、
なかなかタネまく場所もなくなりつつあって、またそれ
を維持していくというか、毎回やるのも大変ですよね。

国本 まだ十年前あたりだったら敬老会とかあったから。最近じゃ、
敬老会といっても老人たちが自分たちでやることのほうが多いですからね。

… カラオケとか。

国本 そう。お金を使ってタレントを呼ぶとかがなくなっちゃった。
仕組みが変わってきてるんでしょうね。浪曲というのは、
そういう仕組みのないときの全盛の芸ですから。
大会に出たり寄席で花形だったりした人を、またお座敷に
呼ぶといった・・・。

… 浪曲大会というのが一つの商品市だったわけですよね。

国本 顔見せ興行でね。

それを地方の奥行師が大会を見にきて、そこであれはいいから
今度は使おうという。

国本 そうそう。で、一本で回れるようになるようにみんな頑張ってたわけですよ。

… 東家浦太郎さんや亡くなった二代目篠田実さんなんかが
浪曲の世界に入ったばっかりの頃は、看板見上げて、その
頃二葉百合子さんと今の勝太郎さんが福太郎でその二人が
新人抜擢されて看板に出てて、「俺もいつかこうなりてえな」
とか言ったというんですけど、武春さんの頃は別にそれを
見上げてどうこうというのはなかった?

国本 うーんとね、ぽくもこの世界に入って十六、七年たちますけど、
大して変わらないんですよ。
入った頃が良かったかというもんでもない。ただ、いい人はいました。
まだ昔の片鱗を残すうまい人がいて、昔ながらの寄席の芸人さん
みたいな座付きの三味線弾きのおじいさんがいたり。

… 武春さんが入った頃というのは、四代目雲月がいて浪花家辰造がいて
三門博が出てて、初代浦太郎が元気いっぱいで、そういう状況だった。

国本 うん、それこそカルトな浪曲ファンが必ず五人くらい来ててね。
それにプラスちょこちょこといて、いまだにお客が十五人とか二十人という、
人数は変わらない。

… でも、変わらないというのは考えてみたらすごいことですよね。

国本 昔のすごい浪曲師がいなくなってもそのくらいいるというのはね。

… 逆に武春さんが入った頃というのは、そういう息吹が、
たとえば雲月さんがいれば無言の緊張感があるとか。

国本 ありますね。

… 今は、それがほとんどないんですかね。若手の人たちは
全然そういうものを感じてないようにも見える。

国本 変わりましたよね。とはいうものの、ぼくらが入った頃は、
これでどうにかしようという感じがありました。今の若手は
どうにかしようと思つてないとはいわないけど、なんか違うんですね。

… 思ってないかもしれない。

国本 これはまあ浪曲界だけじゃなくて、今頃と言っちゃあなんですけど、
この時代に芸人を志すってこと自体がどういうことなのか、
何を考えてやってるのかということですよね。

… 浪曲の世界に飛び込もうと思った動機はなんだったんですか

国本 最初は曲師の一東家みさ子師匠に弟子入りしたんですよ。

… そのときは三味線弾きになろうと思った?

国本 いや、浪曲師になろうと思ってたんだけど、まだ漠然としてたんですよ、
どうしようか。結局、高校出て、演劇ちょっとかじったりして、音楽も好き
でバンドもやってたりして、でもやってる音楽がブルーグラスっていう
アメリカのカントリーですからね。これは商売にならないだろう。
だからといって役者、それも任じゃない。自分もそんなに役者に対して
知識があるわけじゃないし。好きな劇団があって追っかけてるわけでもない。
何をしていいのか分からない状況の中で、ただ舞台に上がってやる商売
はいいなと思ったときに、まずは落語、寄席から入りまして、寄席通いをし
てまして、その流れで浪曲、講談がある、そういえば親も浪曲やってたじゃないか、
ぼくも芸人の伜ではあるわけですよ。それで浪曲に少しずつおそるおそる、
こっそりと触れていった。

… 親に内緒で。

国本 そうですよ。

… お母さんの浪曲というのは小さい頃聞いたことがあったんですか?

国本 聞いたことあります。しみじみは聞いたことないけど(笑)。
雲月先生のはよく聞いたんですよ。
小学生のとき、浅草の花やしきでまだ見せ物をやってた頃に
よく木馬亭に連れていかれて。
雲月先生はトリだから、うちのおふくろ、
雲月先生が終わらないと婦らない、
で、「あーあー」って先生がうなってる、
あれが浪曲か、大変なもんだなと思ってたんだけど。
その程度で、しみじみと子供の頃
舞台の前で一席聞いたとかはありません。
でも、おふくろがアメリカ巡業で雲月先生と
一緒に行っちゃったときなんかは、
雲月先生の家に預けられたり、そういう環境ではありましたね。

… そのころ雲月先生の家にはお弟子さんはいたんですか?

国本 どうなんだろう。一つ二つの頃だから(笑)。そのころは下火になってた
ころだし、先生もそんなに弟子はとってなかったんじゃないかなあ。

… なぜすぐ浪曲じゃなくて三味線から入ったんですか?

国本 高校時代、民謡ブームで金沢明子なんかがいて、ジーパン民謡
とかいってね、ただジーパンはいただけでしたけど(笑)。
で、ブルーグラスのバンドやってる仲間で海宝弘之というのがいて、
その親父が芸事が好きで、そこの家には修理工場がありまして、
工場の上にでっかい広間を作ってそこで三味線を習ってたんです。
うちらは離れの方でブルー グラスばかりやってて、そしたら
「お前ら、洋楽なんか誰も聞きやしねえ」とか親父さんにいわれて(笑)。
「三味線ゃれ」とか言われて。

津軽三味線、なんか弾くと、結構ブルーグラスのパンジヨウのプレイ
と似ててアドリブぽいところがあってカッコいいわけですよ。
じゃ、ちょっとやろうかなって半年くらいやったのかな。だけど、歌
とか興味ないから、曲弾きのねダンダンダンダンあればかりやってた(笑)。

… なんか津軽の大会に出て優勝したとか。

国本 優勝じゃないですよ、「邪道だ」って言われたんですよ。

… (笑)。

国本 「あれは津軽三味線じゃありません」って名指しで言われた。
まあ、浪曲師になるのに、まったく何もないというのも不安だったから、
まず三味線から習おうという。
それがあって、三味線を習いに行って、みさ子師匠は、昭和の名人で
三本の指に入るくらいの人なんですけど、教えてくれないんですよ。
「浪曲の三味線は教えるもんじゃない」とか言ってね(笑)。
こっちは習いに行ってんのにね。「教えられないのよ」って言う。

でね、うちの師匠(後に浪曲の師匠となる東家幸楽師匠。みさ子師匠は
幸楽師匠の妻)に、「ちょっとお父さん、やって」って言う、うちの師匠も
独特の節だから「何から何まで〜」とかやって、みさ子師匠にうちの師匠が
怒られたりして(笑)。「なによ、その節は」なんて言われて。
師匠がなんか稽古付けてもらうみたいで、師匠も「うーん」
なんて言っちゃってね(笑)。稽古になんないんですよ。

行けば必ず三味線出してチャンチャンはやるんだけど、
「まあ、もういいからうどん食べましょう」と言っていつもうどんとってくれちゃ
一日一、二時間、昔はこの先生は凄かったとか、楽燕先生(東家楽燕、
幸楽の師匠)から弾いてる人ですから。もう芸談ですよ。
楽燕師匠は、雲右衛門(桃中軒雲右衛門、浪曲中興の祖)の芸の弟子ですよ。
本人は関東節の師匠のところの伜だったんですけどね。
雲右衛門に傾倒して低調子に。

… そうすると、雲右衛門の直系なんですね。

国本 そうですね。楽燕門下は雲調というか。

… 雲右衛門のひ孫弟子にあたるわけですね。

国本 ま、ひ孫弟子ですね。

… そういう意味では国本武春というのは浪曲界の正当派なんですね。

国本 村田英雄さんもそうですよね。村田英雄先生はおじさんにあたる。
酒井雲というのが一番最後の雲右衛門の弟子ですから、
村田先生はそのお弟子さんですから。
楽燕先生は、当初は桃中軒を名乗っていたんだけど、東家にして、
ただ芸は雲右衛門の芸ということで。みさ子師匠は、大正から昭和の初めに
かけてのその頃の四天王と呼ばれた楽燕、木村重友、初代天中軒雲月、
(鼈甲斎)虎丸の国技館でマイクなしでやった頃の話しをえんえんするわけですよ。
そりやもうね、これから浪曲やろうと思ってる若いモンにとっちゃ、夢が風船
のように膨らんじゃって、こりゃ、凄いところだと、今はどうか分からないけど、
これはやりようによっちゃあね、今の東京ドー ムで独演会をやるのと
同じじゃないかと、これはやろうかな、となんか分からないけど夢いっぱいでしたよ。

… その後浪曲を目指す。

国本 で、「実は三味線じゃなく、一席やりたいんです」
って言ったら、
師匠はなんとなく察してて〈待ってました〉って感じで。
「三味線を男が弾いたって、語り手がいないんだから」
って言ってね、
すぐ台本くれて、
その日から節の方の稽古が始まったんです。

それでみさ子師匠が、
木馬だろうがどこの仕事だろうが、
ついてきて弾いてくれたんですよ。

… お寺なんかでもやったとか。

国本 やりましたね。それで、すごいもんですよ。浪曲というのはアドリブの芸
ですから、基本的に。今でこそ、「佐渡へ佐渡へ」と決まっているみたいですけど、
あれ、昔のネタ帳みたいなものを見たら、一日三席ずつやって二年くらい回ってや
ってるんですよ。
「佐渡へ佐渡へ〜」も最初からあのメロディだったのか、
そうだったかもしれないけど、やっているうちに固まってきたものか、
それは分かりません。
やってやってやり尽くして、最高のメロディーを作ってきたものだから、
あういう風に固まったみたいに思うんだけど、基本的にはアドリブなんですよ。

だから米若先生(寿々木米若、「佐渡情話」で一世を風靡)だって、
新ネタやったら同じ調子で出来たか、
違う調子になったりしたんじゃないかと思うんですよ。
だから、そういうアドリブの芸のものですから、
全く予備知識がない者にとってはすぐに壁にぶつかるんです。
「何が何まで何とやら~」といったら、次はえっ、どこにいくの?っていう、
高く「ものが~」なるのか低く「ものが~」になるのか分からないんですよ。
こぶしももちろん回らない。

それがね、みさ子師匠の手に掛かると、もう大変に広い、目の前に六車線くらい
の道が見えるんですよ。そこに乗っかってやってればいい。
だから弾いてもらった一年間というのは、回りの人たちからもみるみる
うまくなったと言われたけど、どんどん吸収してたときだったんでしょうね。

で、お師匠さんが亡くなられて、さて、三味線が、というとき、
今度は行き止まりばっかりなんですよ。

… そんなに違うもんですか?

国本 違うんですよ。いなくなってしばらくして初めて分かる。普通にやってる
三味線弾きも、腕自慢の師匠、手が回る師匠はいっぱいいる、いい音色
を出す師匠も結構います。だけど「あのね、そこはこう出すのよ」と
何にも言わないで導き出すというか。

… いわゆる語りを引き出すというやつですか?

国本 そういう意味では最後の人だったですね。あの師匠なんかは楽燕師匠にはじまり、
京山華千代、松平国十郎って三味線には最高に煩い人を弾いてきたから。
「今は、手が三っか四つあれば誰でも弾けんのよ」とか言って、
「つまんなくなっちゃった」ってがっかりしてましたね。
「こんな手まであるのか、というところまで作ってきたのに何にもなんない」
って。誰かやってくれないかつて言ってましたよ。

… みさ子師匠なんかの修行してた時代のあとが「旅行けば」の
虎造であるわけですよね。

国本 そう。昔のようだけど、今いる人が見てきた時代。だから、雲井良夫さん
っていう方がいて、ぽくが入ったときにすでに九十歳くらいの人でしたが、
雲右衛門を見たというんですよ。桃中軒雲右衛門を見た、という人がいたんですから。

… それがないというのは今の若い人たちは可哀相ですね。

国本 現場を見てるわけじゃないから先輩たちの話を聞くと、広がるわけじゃな
いですか。今、木馬の楽屋あたり行って、中堅の師匠たちが話ししてるサイズと
うちのお師匠さんがいうサイズとはスケールがまったく違うんですよ。
もう浪曲全盛の話で、浪曲というのは一人で一時間くらい一席をやって、
独演会だとそれを三席くらいやったりする。
それをマイクなしで五千人ととか・・・

… 舞台にまで…客を入れて・・・・・・。

国本 そう。舞台から落ちたなんてこともありましたけど、そんなことまでしてね、聞かせる。
それはもうパワーとか存在感とか話術とか、芸、声、節、すべてが魅力的で、
客をグイグイ引っ張ってくる。

そりゃあね、昨日今日まで浪曲は大道芸だったかもしれないけど、明治の時代に
苦労する人がいて、百年そこそこの芸。
それが五十年くらいで成り上がったわけです。もう地道にやってる他の世界に比べ
れば、「なんでえ、チョンガレ上がりが」と一言うかもしれないけど、
それは今で言うニュー ミュージックでポンと売れるのと同じというか、
その元祖みたいなもんで。そこにドリームみたいなものがあるじゃないですか。
そんな夢を持ちながらも、自分の芸を見せるのに友だちを呼べないという現実
があります(笑)。

… カツコ悪くて?

国本 一回呼んだんですよ。
入って一年目くらいに。
まだ二席しか知らなくて、
聞かせたら黙ってんの。
「どうしたんだょ、感想言ってくれよ、
一年くらいでなかなかこうはならねえだろ」
って(笑) 。

じっと黙ってんの。いつも陽気でゲラゲ
ラ笑うような奴らだったんだけど、
「うーん、大変だな」って言われてね(笑) 。

おれは大変なところに入っちゃったんだ
なと思いましたよ(笑)。

われに返って、これはちょっとカッコつくまで
あんまり人呼ばない方がいいやと思って。
ちょっとカッコつくまでね。

… 最近は、浪曲以外にも進出してますよね。

国本 うん。津軽三味線をやってる佐藤通弘さんと『うたざえもん」というタイトルで
津軽民謡のルl ツにタイムスリップして、歌い手と三味線弾きがいろいろやる
みたいなことをやってました。
そうこうしてたら、アメリカのジョン・ゾー ンに呼ばれてニューヨークに行
ったんですよ。佐藤さんと一緒に浪曲やったりしたんですけど。

… お客さんは日本人?

国本 日本人半分です。

… アメリカ人も半分いる。

国本 そうそう。

… で、浪曲をやってきた。

国本 ごちゃまぜ浪曲。国定忠治のところに清水次郎長が出てくるような、
オールスターキャストでね。

… (笑)。

国本 なにかというと「みんなでニューヨークへ行こう」って。虎造節やったり
米若やったり、モノマネしながら、自分の得意の節を最後にやって。
どうせ分からないだろうと思ってたら、なかに日本人の結構偉い先生なんかも
来てて、「いろんなのいっぺんに聞けてよかった」って、
喜んでんだかバカにしてんだか(笑)。

それを木馬でやったら楽屋バカ受け。
そしたら福太郎防匠に「(天保)水滸伝が入つてないじゃないか」って
怒られちゃった(笑)。「あんなに入れるんなら水滸伝を入れろ」。

… (笑)自分のところのお家芸が入つてないから。

国本 でも、こんなことは昔はよくあったことでね。
そのころ、錦糸町で「うなって語って錦糸町」といういわば浪曲バラエティ
みたいなものをはじめたんです。新作なんかやったり、
三味線ロックもそのころからかな。

後半に続く

… )インタビュー・稲田和浩

取材・構成=伍東道生   写真=小林伸幸