フェニックスホール 国本武春インタビュー

2009年10月14日 大阪フェニックスホール 谷本 裕さんの問に答えます。国本武春48歳当時のインタビュー
以前のサイトでは独自の再掲載でしたが、今回はフェニックスホールサイトで御覧ください。
(サイト内の記事も掲載中)

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ロック、ブルース、忠臣蔵。ニューウエーヴ浪曲師「国本武春」
2009年10月28日ザ・フェニックスホールに登場。

■国本武春さんインタビュー
ロック、ブルース、忠臣蔵。ニューウエーヴ浪曲師。
10月28日ザ・フェニックスホールに登場。
取材・構成  谷本 裕  ◆インタビュー:谷本 裕 (C)ザ・フェニックスホール
2009年10月28日 大阪・梅田 ザ・フェニックスホール
(前文)
 クラシック音楽公演で親しまれるザ・フェニックスホール。この「室内楽の殿堂」が10月28日(水)、
 一転「寄席(よせ)」に変身する。出し物は浪曲(ろうきょく)。三味線を伴奏に歌と語りで演じる話芸で、
 浪花節(なにわぶし)とも呼ばれる。かつての人気は失われたが「殿中でござるぞ」「江戸っ子だってねぇ。神田の生まれよ」
 といった名台詞(せりふ)、「♪妻は夫をいたわりつ~、夫は妻に慕いつつぅ~」「馬鹿はァ死ななきゃ治らないぃ~」
 といった小節(こぶし)の利いた歌回しは、今も私たちの話し言葉に残る。
 今回、登場する浪曲師は国本武春(くにもと・たけはる)さん。
 伝統的な話芸の一方、三味線を一人二役でこなし、ロックのリズムやブルースも交えて語り唸(うな)るニューウエーヴ。
 テレビ番組、ミュージカルやアニメ映画、ブルーグラスバンドでも活動を広げ、「浪曲ルネサンス」へ奮闘するマルチ芸人。
 本拠地・浅草で話を聴いた。
                     (ザ・フェニックスホール 谷本 裕)
「寄り道」が生む「弾き語り」
 「忠臣蔵」「森の石松」「国定忠治」…。タイトルだけで、浪曲の台詞や歌が脳裏に蘇るのは、50歳代以上だろう。
 浪曲の生まれは江戸末期。明治、大正、昭和に黄金期があったが、昭和30年代以降はテレビ、
 映画といった新しいメディアやレジャーの台頭ですたれた。
 元禄年間に起きた赤穂(あこう)浪士の討ち入りをはじめ、
 出し物の多くは義理と人情に生きる人間を情感たっぷりに描いた古典。
 一般的には寄席が活動場所で、語り手は三味線弾きを従え、紋付き羽織袴(はかま)姿で演じる。
◆ 国本さんは、軽やかな洋装でライブハウスやホールに登場、三味線を弾き、
 ポピュラー音楽のノリで新たな命を吹き込んでいます。
 席には若い女性の姿も多いですね。一人で掲げる二枚看板。その理由は。
国本 ― 浪曲のイメージを、変えれたらなって思ってんですよ。
  昔のやり方を、ただ続けてるっていうんじゃなくてね、理屈で掘り下げると可能性が広がる。
  今、古典を聞いてもらう意味ってのをよーく考えて、自分が楽しくて、居心地の良いやり方を試してみる。
  その姿を見てお客さんに楽しんでもらいたいんです。浪曲ってのはね、昔、大変な人気だったんです。
  SPレコードやラジオが出来たころは、名人は歌舞伎座みたいな大きな場所で何日間も興行やった。
  最高のポピュラーソング、大衆芸能の王様だった。
  ところがテレビが出て来た。あれ、見て楽しむでしょ。浪曲は聞いて楽しむ。
  お客さんの興味が離れていったんですね。それと歌謡曲、特に演歌。
  「王将」で有名な村田英雄先生は元々、酒井雲坊っていう浪曲師だったんです。
  声が良いもんだから引っ張られてね。三波春夫さんもそう。人材が出てった。
  とはいっても、アタシがこの世界に入った30年ほど前は、
  人様に聴いてもらいていって思える名人が、まだまだ居ましたよ。
◆なのになぜ、浪曲人気は衰えていったんでしょうか。
国本 ―「偉く」なっちゃった面がある。浪曲はいちばーん最初、大道芸だった。
  そのうち寄席にも入れてもらえるようになって、先輩格の落語や講談を人気じゃ抜いちゃってね。
  いつの間にか、世の中に付いてけなくなったのに、「ウケないのは客が悪い」なんて言って、ズレちゃった。
  良い時代を知ってる先輩は、懐かしがってばかり。新しいアイデアも行動もあんまり出て来なかった。
  その中で工夫して、新しいこと始めて、責任持たなきゃなんないのは結構、大変でした。
  浪曲は基本的には娯楽ですから「試作品」をたーくさーん、こしらえといて、
  将来、自分のスタイルを作る時、役立つだろうって思ってンです。古典も欠かさずやってます。
  きょうアタシが出てた「木馬亭」(※1)って小屋は今じゃもう「聖地」でね、
  おかみさんの心意気で何とか続いてる。大事にしなきゃ。
 江戸から明治にかけ、チョンガレ、チョボクレと呼ばれた門付芸(※2)や、
  祭文(さいもん※3)と呼ばれる市井の物語芸が浪曲へと練り上げられる際には、
  江戸や大坂をはじめ、各地でさまざまな試行錯誤があった。
  また、流行している講談や歌舞伎の要素を巧みに取り込んで、浪曲は愛好者を増やした時期もあった。
◆国本さんは、ご両親ともに浪曲師。祖父、曽祖父も浪曲と縁の深い、「サラブレッド」ですよね。
  幼い頃から、この世界にどっぷり浸かっておられたのかと思っていましたが、
  青春時代、心酔したのは何とブルーグラス(※4)だったそうですね。
国本 ― 高校卒業後、舞台芸人を目指し、専門学校に進んだんです。
  浪曲なんて、やってたまるかって思ってましたね。
  幼い頃から、寄席に出るお袋に連れられて、浅草界隈で遊んでいたんです。
  夕方、小屋に戻ると舞台でまだ唸ってて、「何やってんだろ」なんて思ったもんです。
  親が芸人だけに反発して、「自分にゃ関わりがない」って突っ張ってたんですね。
  成田(千葉県)の中学に通うようになって放課後、よく本屋に寄り道した。
  店内のFM放送で流れてたのが、ブルーグラス。シビレましてね。
  当時、ビートルズが大人気でしたけど、アタシにゃ「人が良いってモノは要らないよ」っていう、
  アマノジャクなとこがあるんです。反骨漢だった父親似なんすかね。
  友達誘ってバンドつくって、高校時代もマンドリン弾いて。
  ライブハウスじゃ寸劇で笑いをとったりして結構、売れてたんです。
  でも、卒業が近付いてきた時、「どうもこりゃ食えそうにない」って感じてね。
◆どうしてですか。
国本 ― 外国の借り物ですしね、第一、ファンが少なすぎる。でも、何とか舞台で生きたいと思ってはいました。
  やっぱ芸人の子なんですかね。で、タレント育てる東京の専門学校に進んだんです。
  洋舞やったり日舞やったり、コーラス歌ったりするんですが、人は多いし、
  たまの発表会に出たって台詞は2行こっきり無いんです。「オイオイ冗談じゃねぇや」って思いましてね、
  寄席に通うようになりました。落語じゃ(立川)談志さんや(三遊亭)円楽さんが中堅。
  (春風亭)小朝さんが二十歳なかばで真打に昇進した頃。憧れましてね。
  落語や講談のレコードを聞いたりしてるうち、とうとう浪曲も聴くようになっちゃった。
  お袋に見つかるのがイヤで、バレないようにコッソリ聴いたもんです。
 浪曲界では古くから、スターが人々を熱狂させてきた。
  古典浪曲の上演スタイルを確立した明治の天才・桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん・くもえもん)をはじめ、
  庶民の演芸といわれていた浪曲を初めて上流階級に広めた吉田奈良丸(よしだ・ならまる)。
  大正年間に活躍した祭文語り出身の鼈甲斎虎丸(べっこうさい・とらまる)、
  九州出身の天中軒雲月(てんちゅうけん・うんげつ)。
  「森の石松」をレコードでも広げた昭和の巨匠、広沢虎造(ひろさわ・とらぞう)など名は尽きない。
  国本さんのお気に入りは、雲右衛門、東家楽燕(あずまや・らくえん)といった名人の記録だった。
◆反発していた浪曲を、どうして聴くようになったんですか。
国本 ― イッパシの演芸通気取りだったんですけど、最初はレコードに針落としても、何言ってるのかよく分からない。
 それがアタマにきて聴き込む。結局ハマっちゃったんですよ。
  第一印象? 「何とかなる」でしたね。
  節があって、語りがあって、音楽的なとこがあって。しかもドラマが付いてる。
  ワクワクするようなリズム感だってある。話芸としては完成されてます。
  浪曲師になるって決めた時は、お客さんが少ないのも知ってました。
  「10年経ったら、誰が聴くんだろ」って危機感もあったんですが、
  ともかく一年は三味線習って、専門学校卒業の年、浪曲の師匠の弟子になりました。
  この世界じゃ15年ぶりの新人だったんです。着物畳むとこから修業を始め、先輩についてあちこちへ。
  ゲラゲラ笑わす人、泣かせる専門。芸がいろいろ見えてくる。
  関西じゃ三味線とギター二挺でやる人もいて、「あ、何でもアリなんだ」って思いましたね。
  浪曲ってのは昔から、文楽や歌舞伎みたいにキチンとした「型」がある訳じゃなくって、
  スタイルを作った者が勝ち。みーんな自己流です。
  ブルーグラス始めた時、人がやらないことをやりゃあ早く世に出られる。
  子どもながら計算してたんですが、浪曲も似てる。
  数年は古典を型通り勉強し、十八番も出来た。ある日、昔のバンド仲間を寄席に呼びましてね、一曲、聞かせたんですよ。
◆喜んで聴いてくれたでしょうね。
国本 ― いやー、それが。打ち上げに行ったら皆、下向いたまま、ひとっ言もしゃべんない。
  まがりなりにもアタシはプロ。やつらァまだバイトでしょ。
  差を付けちゃったな、ワルイことしちゃったねぇなんて思ってたら
  「オマエ、大変なとこ入っちゃったね」って言われましてね。ショックでした。
  そうか、コイツらが喜ぶ芸やんなきゃ、浪曲ファンだけ相手にしてちゃダメだって痛感しました。
  思えば入門以来、浅草の世界から出ないで修行してました。
  気がついたら、世間とあんまし関係ないとこで仕事してたんですよね。
  仲間の言葉だけに、発奮しましたよ。三味線で国本流の浪曲を作り始めたのはそれから。
  実はお袋に前から「自分で弾けば良いじゃないか」って何度も言われてたんですけど、
  これまた反発してましてね。相談したヤマハの先生のアドバイスで、やっとヤル気になったんで。
 こうして生まれたのが「ロックンロール笠地蔵」。
  素材は信心者の老夫婦が雪の夜、お地蔵様をいたわったことから大晦日、贈り物を手にする説話。
  国本さんは革ジャンにサングラスのいでたち、電子リズム装置も駆使し、新しい浪曲を初めて語った。
  場所は四谷のライブハウス。仲間の舞台の手伝いだった。
  世は津軽三味線が脚光を浴び始めていた頃。集まったティーンの反応は鮮やかだった。
◆この路線が、ユニークな「弾き語り」に繋がっているんですね。
  大阪でも十八番の「ザ・忠臣蔵」を聞かせてもらいますが、古典とポップスを組み合わせる難しさはありませんか。
国本 ― 昔ッからの台本ってのは、よく出来てる。日本語の七五調ってのが、ロックのリズムにうまく乗る。
  これ、やっぱり「古典の力」ですよ。古典ってのはキリがない。
  コイツを頭ン中入れて、浅草出たり入ったりしてる訳です。
  寄席も良いですけどブルーグラスが縁で留学したアメリカはもちろん、いろんな人の顔見てやる仕事も楽しいです。
  「弾き語り」で、浪曲に関心持つ人が少しずつ増えてくれるのも、嬉しいことで。弾き語りの時はね、
  分かりにくい部分がちょっと混じってても良いと思ってんです。
  音楽で寄り添ってるから、少々突き放しても皆さん、付いてきてくれる。
  でも逆に古典をやる時は、分かりやすくやんなきゃ。今はそれが大事。
  「味付け」は、いろいろやってますけど、やっぱり「本筋」は古典。そこに目ぇ、向けてほしい。
  夢? 世界中がだれでも知ってる小節を一本、持つことですかネ。
  アタシのやりたいことは未来永劫変わっていくんでしょうから、試作品づくりも死ぬまで続くんでしょうね、きっと。
(以下、脚注)
 ※1 木馬亭 浅草・浅草寺の本堂のすぐ西にある寄席。東京で唯一、恒常的に浪曲を聞かせる小屋として知られる。
 ※2 門付芸 人家の前で演奏したり、歌うなどの芸。多くの場合、それにより金品を得た。
 ※3 祭文 江戸時代、ほら貝の音を模しながら、講談や芝居を語ったといわれる。山伏や大道芸人の芸で、
      江戸や関西などで活動。錫杖や三味線を伴奏とした。「さいぶん」とも言われる。
 ※4 ブルーグラス アメリカ南部で発達した白人音楽の一つ「カントリー音楽」の一種。
    1940年代にビル・モンローが始めたバンド「ブルーグラス・ボーイズ」が創始したとされる。
    バンドは概ねヴァ イオリン、バンジョー、マンドリン、スチールギターとウッドベースから成る。
    テンポが速く、裏打ち(オフビート)が強調され、ノリが良い。
 ザ・フェニックスホール(THE PHOENIX HALL)
 所 在/大阪市北区西天満4-15-10(梅田新道東南角)
 ニッセイ同和損保フェニックスタワー内
 用 途/多目的ホール(主にクラシック音楽のリサイタル、室内楽コンサート)
 客席数/標準301席
 1階席 標準168席(1階席増席可 最大202席)、ホール2階席 固定133席
 特 徴/フェニックス(不死鳥)の翼をイメージしてデザインされた天井や壁には、ホールの響きをきめ細かく調整できるよう、  随所に反射/吸音の可変機構が組み込まれています。
 楽器の特徴に応じ、流麗で豊かな響きを得るように適度な残響条件を追求しました。
 大開口ガラススクリーン越しに、街を眺望しながらコンサートを楽しむ空中劇場。
 遮光壁をおろせば、完全な室内ホールとなります。
 〒530-0047 大阪市北区西天満4-15-10(梅田新道・東南角 ニッセイ同和損保フェニックスタワー内)
TEL 06-6363-0311(代表)