国本武春 名人を語る 第3回

月刊浪曲 11月号 2001年10月25日発行 〜

伊丹秀子(いたみ ひでこ)

明治42年(1909)10月14日 〜
平成7年(1995)10月28日
東京都出身

6歳の時に藤原朝子(ともこ)の名で初舞台。

1922年には座長。
当時、役柄により声色を老若男女巧みに使い分ける「七色の声」で一躍有名になる。

18歳で、天中軒雲月の名跡を預かる永田貞雄と結婚し、天中軒雲月嬢を名乗る。

1934年に2代目雲月を襲名。

戦中期に
「杉野兵曹長の妻」や
「九段の母」など、
時局色の強い主題で人気を呼び、
広沢虎造や寿々木米若と並び一時代を築く。

映画出演も戦中期を中心に多数。

戦後になり、
伊丹秀子の名に変え終生活躍。

兄・二代目港家小柳、
義理の姉も雲井式部の名の浪曲師、
元夫が浪曲師出身の興行師、永田貞雄(元・天中軒雲衛)。
次女は3代目雲月(後の永田とよ子)。

門下に現役の曲師伊丹秀敏
(浪曲師「浜乃一舟」)がいる。

演目
「杉野兵曹長の妻」
「九段の母」
「瞼(まぶた)の母」

伊丹秀子(二代目天中軒雲月)

雲月時代の録音を聴くと
まさしく初代と同じ節なのです。
男まさりのその節には天才ぶりがうかがえます。

しかしそれにとどまることなく、
この後、何人もの声色を使い分ける
七色の声で一世を風靡したのでしょう。

しかし、伊丹先生は声っ節といった
いわゆる浪曲の浪曲たる部分のみで
受けていたわけではないと思います。
もちろん浪曲ファンにも愛された先生だと思いますが、
浪曲というくくりを越えて、
もっと幅広い層の人達に受けていたと思うのです。

ですから浪曲は好きではないが、
伊丹秀子は聴くという人も
多かったのではないかと思われます。

そのように浪曲を聴かない層まで
ひきつけた功績は大きいでしょう。

ただ、落語など演芸に携わる方、
あるいはファンの方からは
七色の声は芸能的ではないという
批判があったりします。

しかし浪曲の場合、演芸ファンをつかむことが
どれだけ当たっているのかと私自身思います。

一つの作品をどうしたら多くの人に
聴いてもらえるのかとか、
理解してもらえるのか、
楽しんでもらえるのかと考えた時、
演芸の範囲の中でおさまっていてはいけないと思うからです。

七色の声がよいのか悪いのか私には分かりませんが、
伊丹先生を声優としてとらえたらどうなるでしょう。
今、世の中は声優ブーム、アニメブームになっています。
若い人達は声優やアニメのキャラクターにあこがれ、
テレビゲームも飛ぶように売れるほどの人気です。

伊丹先生の場合は男も女も年寄も
すべて声を変えることができる。
つまり一人で何役もこなせる声優なのです。
四人兄弟が出てくるようなネタを聴いていて、
その中で兄弟四人の声をすべて変えたのには驚きました。
そんなことから伊丹先生は現代の声優さんの
百倍もすごいことをやっていたと思うのです。

伊丹先生のこの技術は芸能者とい うよりも職人のそれで、
私は伊丹先生に職人魂といったものを感じます。
そのような伊丹先生の職人魂が、
初代の雲月節をコピーすることだけで終わることなく、
その節を中心にはしているが
自分の確たるスタイルを作り上げる
というところまで進ませたのだと思います。

伊丹先生には永田貞雄という
名プロデューサー、演出家がいて、
二人三脚で芸を作り上げていったのでしょうが、
伊丹先生自身柔軟な思考ができる
頭の良い方だったと思います。

胴間声でワーッとやるような浪曲を
毛嫌いしている主婦層などにも
浪曲を広めた功績は実に大きいと思います。

浪曲になじみのない方でも伊丹秀子といえば
知っているという方も多いですし、
雲月といえば二代目を指すというところがありますから。


初代 木村重友(きむら しげとも)

明治15年(1882) 9 月15 日~
昭和14年(1939) 8 月13 日

神奈川県川崎の名家で生まれた。
少年時代から浪曲や芝居が好きで、当時の浪花節語りとしては若干遅い29歳で浪花亭重勝に入門、「浪花亭重友」となる。

「天保六花撰」など生粋の関東節で美声高調子、たちまち人気者になった。

のちに重勝一門は木村姓を名のる。
重友を中心とした木村派が大劇場時代の関東節の主流に数えられるようになる。

重友は大正後期、虎丸、楽燕、雲月と並び四天王といわれた。

「塩原多助」
「天保六花撰(河内山)」
「慶安太平記」
「越の海勇蔵」
「北海奇聞」
「文七元結」など金襖、世話物、
任侠物の多彩な演題をこなした。

弟子に木村友衛(その門下に木村若衛)、
友春(二代目重友)がいる。

初代 木村重友

大正の四天王の一人、
木村重友先生にはすごいテンションの高さがあります。
張りの強い節や啖呵を
駆使していながらそこに緩急や遊びもある。
その点で綾太郎先生とは異なります。

浪曲家の中には音域の広さを駆使して
高い所から低い所まで聴かせる人もいますが、
この先生の場合は
一番高い所からその八割の所までの音域で
啖呵も含めて表現するんです。

しかしその中で緩急も作り、ケレンも入れています。
僕も重友先生のテープを流しながら
一緒にうなったりすることがありますが、
血圧が三百くらいになってしまうような感じで、
とても真似ができるものではありません。
第一、あのような声は出ません。

その声には金が入っているといいますか、
ものすごく太くて重量感を感じます。
それは米若先生の間口の広い声とはまた違うんですね。

それは世代の違いだと思います。
重友先生が活躍した大正から昭和の初めは
マイクロフォンがなかったといってよい時代です。

そのため最初の頃は
国技館で演じるのに声を伝えるために
ピアノ線を張ってやったというくらいですから。
そんな時代の表現としてはこの先生に声量やパワーで
かなう人はいなかったのではないでしょうか。

大正の四天王の中でも飛び抜けていたと思います。

寄席読みの読み物をやりますが、
そういうものを大きな所で演じられるだけの
パワーと力を持っていた先生です。