国本武春 名人を語る 第4回

月刊浪曲月12号 2001年11 月25 日発行

東家楽園(あずまや らくえん)

明治20年(1887) 2月3日~
昭和25年(1950) 3月8日
東京都出身

父は初代東家楽遊。
幼いころ軍人を夢見る。海城中学卒。
同級生に早川雪洲がいる。
父のもとで修業を積み、早くから東家のプリンス的存在であった。

1907年∶桃中軒雲右衛門の芸に傾倒し入門。
桃中軒雲太夫を名乗る。

半年で東家に戻るが、
悲哀を込め、関西節を混ぜ込んだ
「楽燕の泣き節」
と呼ばれる楽燕節を確立した。

1935年に後進の指導を目的に
東京九段にあった後の日大芸術学部に
浪曲学校を設立。

京山若丸作の「召集令」を演じ、
軍国主義的の浪曲として喜ばれ、
木村重友、三代目鼈甲斎虎丸、天中軒雲月
とともに、浪曲の第二次黄金時代を起こす。

戦後、1946年に設立された
日本浪曲協会の初代会長に就任。

1947年11月浅草松竹座で引退披露公演の最中、病に倒れ1950年に死去。享年63。
墓地は西浅草の法然寺にある。

弟子には、
二代・四代東家三楽、
燕大丞、
菊燕、
栄造、
女楽燕(玉川スミ)
東家幸楽

得意演目
召集令シリーズ、乃木将軍
など。


東家楽燕

東家の節調は楽燕調の低調子と関東節の
二つに分かれていますが、
そのもとになっている先生です。

桃中軒雲太夫と名乗ったことがあるように
雲右衛門の節調の流れをくむ芸の弟子に入ります。
三楽会長はじめ私もその一派に属します。

浪曲の要素には節、啖呵などの他に
立派さというものもあると思いす。

浪曲は明治時代に大道から上がってきた芸で、
いろいろ言われた向きもありますが、
立派さ、品格のよさは楽燕先生辺りが
ちょうどピークであったのではないでしょうか。

雲右衛門先生の芸が持つ品絡を
真面目に品よく受け継いでいると思うのです。
楽燕先生の浪曲には真面目さ、
立派さが芸ににじみ出ているように感じます。

そして実際に上流階級の人々と対等に
付き合うことができる見識を持っていて、
どこに出ても遜色がなかったようです。

師匠(東家幸楽)から聞いた話ですが、
楽燕先生が『乃木将軍』を演じると、
聴いている人たちが衿を正し、
気をつけをしたといいます。

観客には楽燕先生に乃木将軍が
乗り移ったように感じられたのでしょう。
まさしく乃木希典に
なれるだけの立派さがあったといえます。

それは芸能としての浪曲を越えたものであるでしょう。

節調も、楽燕先生の畳み掛けというのは、
戦意高揚の時代に合った、
行進しているかのような調子で、
今あまりやる人はいないのですが、
魅力があるものです。

また、きっかけの節は雲調の泣けてきそうな、
泣き節と呼ばれた哀愁のある節す。
この二つの節の緩急の差によって、
聴く者の心に真面目さ実直さが迫ってきます。

三波春夫先生が学んだことでも有名な
日本浪曲学校を設立したのも
浪曲界のためにという思いの表れでしょう。
私の師匠も、楽燕先生のこの意志を受け継いで
永年にわたって浪曲研修会を開いていました。

楽燕先生は立派な浪曲師という感じがいたします。


初代 天中軒雲月(てんちゅうけん うんげつ)

明治28年(1895) 3月~
昭和20年(1945) 4月6日
佐賀県出身

10歳で浪曲の世界入り。
12歳で早川勘之助(原田宝山)に入門

早川勘之助の養子になり
天中軒雲月を拝命。
(命名は桃中軒雲右衛門に因んでいる)

天才少年浪曲師として
九州一帯で名を馳せる。

1911年(明治44年)上京。
1912年(明治45年)両国国技館の
浪曲大会に出演,天才少年と評判をよぶ。

1912年(明治45年)両国国技館で
二六新報社(後に日刊工業新聞社と合併)
主催の独演会を開く。


浪曲第2期黄金時代四天王
・初代木村重友
・東家楽燕
・3代目鼈甲斎虎丸
と共に浪曲四天王の一人として活躍。
余芸で米山甚句や都々逸を響かせた。

1926年8月20日 NHK発足当時に出演
「赤穂義士伝〜神崎東下り」

演目
「赤穂義士伝」
「佐倉義民伝」
などおもに桃中軒雲右衛門の演目を演じ
雲月節といわれ人気をあつめた。

1931年、地方巡業中に脳病で倒れ、
長い療養生活を送る。

1945年(昭和20年4月6日)死去51歳。
墓所は佐賀県唐津市松雲寺。

初代 天中軒雲月

36歳で病気で倒れ、以来舞台には立たなかったのに
大正の四天王の一人として名前が残っています。

活躍した年齢を考えるとまさしく天才です。

浪曲師の場合、
基本的に下準備なしでも節が語れる
作曲能力がなければいけないのですが、
雲月先生の場合は天才的なところがありまして、
乙の声から高い声まで駆使して
自由自在に聴かせてしまいます。

このように声の音域の幅を
自在に使えるのに加えて
リズム感もあり、メロディもすばらしい。

雲月先生の道中付けの良さといったら
下手な歌謡曲よりもよほどわくわくし、
いつまでも聴いていたい気持ちの良さがあります。
これは初代梅鴬先生にも通じることですが、
わくわくさせるメロディには天性のものがあります。

浪曲は筋の内容も必要なのですが、
そんなものはどうでもいいじゃないか
というようなすばらしさが雲月節にはあります。
雲月先生自身も浪曲を語りたいというよりも
歌いたかったのではないかと思います。
浪曲を一つの歌としてとらえた、
おそらく最初の人ではないでしょうか。

津軽民謡は高橋竹山先生などが
だいたい作ったものなので
浪曲よりも歴史が新しいものです。
ですから古い津軽民謡を研究していると
雲月先生の節調をとって演じているのが分かります。

これは津軽民謡ばかりでなく、
当時の流行り歌の多くが
雲月先生の真似をしているところがあります。

また、雲月先生は一席やった後に
米山甚句や都々逸などを
余興に演じて受けたそうです。
これなどは、後年、浪曲師が歌謡浪曲を作ったり、
演歌を歌ったりするようになった、
そのはしりともいえると思います。

本を読んだりすると、
体を振り振り演じていたとか書かれていて、
けっして品格のある舞台ではなかったようです。
しかし、それはショーマンシップの表れだと思います。

九州の出身ということで
ノリの良さがあったのではないでしょうか。

浪曲師は立派であれというところがありますが、
雲月先生の場合は浪曲は楽しくあれ、
浪曲は観客を酔わせていくらだ
というものだと感じます。

ともかく節については超一流、大天才です。
どれほど多くの浪曲師が
雲月節を取り入れていることでしょう。

特に女流の八割から九割の方は
この節を使っているのではないでしょうか。
このようなところからも
雲月節の大衆性といったものが感じられます。